スパイスの歴史に関するお話マゼラン出帆

バスコ・ダ・ガマのインド航路発見を契機として、ポルトガル国王は東方諸国の制圧に乗り出し、インド沿岸の支配権を確保、重要ポイントのマラッカ海峡も制圧し、東洋のスパイスをはじめとした交易から大きな利益を得る機会を手中にします。これらのポルトガルによる一連の東方進出の船団に加わっていたのが、若きマゼランでした。
やがてマゼランは、市民権を得たスペインで未知の大洋に挑む計画が当時のスペイン王・カルロス一世の承認を得るに至り、ついに1519年9月、世界周航という冒険の一歩を踏み出したのです。

  • スペインの王城(セゴビア)

地球一周

米大陸の南端、後世、「マゼラン海峡」と呼ばれるようになった海峡を抜けて、太平洋に出るまで何と1年2カ月を費やし、すでに5隻の船のうち2隻を失っていました。太平洋の船旅も困難を極めました。壊血病や餓死で全船墓場と化す寸前、現在のグアム諸島にたどりついたのが1521年2月。実に4カ月がかりの航海でした。ここで休養をとった一行はフィリピンのセブ島に上陸。この時、奴隷として乗船していたマライ人のエンリケは島の住人の話す言葉が理解できたといいます。つまり、かつてマゼランが東回りでやってきたマレー語圏に、今度は西回りで到達したのです。地球を一周してきたことがこれで証明されたのです。

帰還

この後マゼランはフィリピンで非業の死を遂げますが、残された乗組員たちは、半年もかけてついに目指すスパイスの宝庫、モルッカ諸島に到達しました。 そして有名な「ビクトリア号」一隻だけが、スパイス(クローブ)を満載にして47名の乗組員とともに祖国スペインに向け最後の航海に旅立ちます。5カ月の無寄港航海の末、1522年9月故郷の港に錨をおろした時には、骸骨さながら、衰弱し、病み、よろめき進む18名の乗組員がいたにすぎませんでした。

3年余の歳月と、その間の冒険と苦難の航海は、約200名の犠牲者と4隻の船を失いましたが、18名の帰還の知らせがヨーロッパ中に広まると熱狂的な反響が起こり、地球は回転する円球で、世界は1つの海で皆つながっていることが立証され、宇宙、天体に関する考え方が急速に変様し、近代化への偉大なる礎(いしずえ)となったのです。持ち帰ったスパイスは、この冒険に費やした暴大な投資と多大な犠牲をつぐなったうえ、なお純益を生むほどの価値がありました。

以降、スペインの海洋進出熱は増し、メキシコ、ペルー、チリ、西インド諸島、フィリピンなどを次々に領土化、世界最強の一国となり、新しい産物として馬鈴薯、トマト、トウモロコシなどとともに、唐辛子、バニラ、オールスパイスなどをヨーロッパにもたらしました。