スパイス&ハーブ事典

スパイスの歴史に関するお話
スパイスは世界に数百あると言われ、ハーブになると万という数になるという説もあるほどです。そしてそれぞれに歴史やエピソードを持ち、全体としても数々の歴史エピソードが残っています。ここでは、人とスパイス&ハーブの関わり、時には歴史を動かす原動力にもなったことのあるスパイス&ハーブの歩みをひも解いてみましょう。スパイス&ハーブから見る世界史・日本史で、新しい歴史を発見できるかもしれません。

バスコ・ダ・ガマの西回り航路開拓

一方、スペインよりも早く、ポルトガルはアフリカ西海岸貿易の道を開拓していました。ジョン王の王子エンリケが同海岸への航海を奨励して幾多の成功を収めたことは、コロンブスの新大陸発見の偉業と同様に、スパイスの歴史の上で重要な意味を持っています。

エンリケの死後間もなく、バルトロメウ・ディアスがアフリカ南端の喜望峰航路を発見(1484年)したのに続き、鍛え抜かれたバスコ・ダ・ガマという優れた航海士が出現します。コロンブスが第2回目の大西洋横断の旅を終わった頃、バスコ・ダ・ガマは喜望峰を回航してインドのカリカット(カルカッタではなく、現在のコーチンの北200kmの都市)に到達し、マルコポーロが「東方見聞録」で記述した「こしょう海岸」(マラバル海岸)の現地調査を実現(1498年)、スパイスで船倉を満杯にして母国の港へ帰港しました。

こうしてアフリカを西へ回る新たな航路、つまりアラビアやベニスを経由することなく、東洋とヨーロッパを直接結ぶ交易路が開拓されたのです。これ以降、スパイスの中継貿易として栄えてきた地中海沿岸の街、アラビア、ペルシャ、ベニスは、斜陽の道をたどる一方、アフリカ、インド、ブラジルまで制海権を広げた海洋王国ポルトガルの栄光の時代が到来したのです。

バスコ・ダ・ガマの上陸記念碑
バスコ・ダ・ガマの上陸記念碑

バスコ・ダ・ガマがインドのカリカット(現在のコーチン)に建てた教会
バスコ・ダ・ガマがインドのカリカット(現在のコーチン)に建てた教会
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